「日本仏教の新しい歴史を開く」
当クラブ会員
光増寺住職 桑原忠夫会員
日本における仏教の歴史を考える際に最澄が開いた天台宗ほど重要な宗派はない。総本山比叡山延暦寺は中世において南部北嶺において総大権力を誇った。
鎌倉時代には新仏教の諸宗派が誕生することになるがそれぞれの宗派を開いた宗祖は大半が比叡山で学んだ人で、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、そして日蓮宗の日蓮もである。
法然と浄土宗は日本の仏教歴史の中でも重要な存在でありながら、宗派としての歴史はあまり知られてない。法然は比叡山に登り、15歳で出家得度し天台宗の僧侶となり、後に叡空の弟子になり法然という房号を与えられた。叡空の導きにより、源信の「往生要素」、善導大師の「感無量寿経疏」という書物に出会い、どのように凡夫であっても「南無阿弥陀仏」と唱えることにより極楽往生がかなうと確信した。43歳の時である(1175年)。天台座主にもなれる法然はあっさりと比叡山を下り、東山大谷に移りそれから40年この地が活動の拠点となった。後に今の浄土宗総本山となる知恩院が建てられた。
法然は一般の仏道修行を「聖道門」と呼び、念仏によって往生を果たす「浄土門」と対比させた。聖道門は誰もが簡単に実践することができない「難行」であるのに対し、浄土門は誰もが実践できる「易行」である。この教えは出家得度して長い時間かけて修行を行わなくても誰もが簡単に念仏さえ唱えれば悟りを開き往生ができるというものだった。これは比叡山で実践されている仏道修行の価値を否定することにつながり(1186年)天台座主顕真主催で大原「勝林院」にて法論が開催された。
その後念仏の声は京都から始まり全国津々浦々に広がったことを思えば人格的にも法然には相当の魅力があったのだろう。当時の最高権力者の一人、九条兼実の自邸にも招かれ、兼実の要請で大原問答の3年後文治5年「選択本願念仏集」という本を著した。
法然の教えは、今までの仏教のあり方を全面的に否定するもので常識から懸け離れた危険極まりない思想であった。(宗教改革)
既成の仏教勢力や興福寺からも批判がなされ土佐に流罪にもなっている。1211年建歴元年に京都に戻ることを許され建歴2年1月5日80歳で亡くなった。